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遠い陽光の中に消し忘れられた落書 - それが“想”だった頃

未完の、嬰児

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ひどく、残酷に
緩慢な死によってうしなはれゆくのは、
命、なんかではなく、
ましてや魂、などというものでもなく、
ただいたいけなままの、未熟で幼いこころである
ひ弱で、木陰の陽光にさえしおれてしまう
そんな、いたいけなままの、
未熟で幼いこころである

あなたはもはや、
残忍な世界の一部として刑を執行する、ただ黙々と、ただ粛々と
それは、あの安産に似て原始的で野蛮な、あるいは愛なのだろうか
幼いこころは、それを理解しない、幼いこころは、それを理解できない

ただ、はらわたを引きずりだされ横たわる路上の獣のように
惨めったらしいやつらに向けてうるみ、あの野生を精一杯に夢に見る眼となって、
あの眼だけになって、もはや雨を待つだろう
あるいは黄塵の砂漠に向けて吐き出される、精一杯に臭い息となって
あのとても臭い息だけになって、もはや乾燥だけを待つだろう

おまえたちはひとならざるひととなりさがり、
それは、あるときはおまえらの好む猫であり、それは、あるときはおまえらの好む犬であったが、
つまるところ、それらのすべて、
その、なにものでもない、ひとである
もはや神話は遠ざかり畸形を愛しみ、楽しみ慰めあう
それだけで生きてさえゆける、
あの、なにものでもない、ひとである

ほら、砂がふってきた!
もはやなにものも映さなくなった眼には、砂がふるのだ
ほら、雨がふってきた!
もはや干からびて体液を持たない骸には、雨がふるのだ
そのときも午後三時をすぎて子らの笑む声、はしゃぐ声
かれらの 路傍を愛する骸の群れ
午後三時をすら越えられない、骸の群れ
そのかたはらの嬰児のミイラ
だれにも見ることを許されぬ、いと小さきものよ
いと、ちひさきものよ

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石蹴り遊び 備忘録

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長くかかりそうだと思いながら、徐々にペースが上がって第2部からはほとんど一気に読んでしまった石蹴り遊び、読み終えたときの手放せなさがすごかった。

この本の特徴をひとつだけ挙げるなら-読み手によって全く違う物語が展開すること、これに尽きるかと思う。しかし、この特徴さえ"人"によって"違う"はずで、つまり前半のわたしは主人公・オリベイラのクソっぷりをくさしながら読んでいたし(つまりクソな主人公の話)、前半終盤では美しい女浮浪者の物語に惹かれて全編を通じてボヘミアン的哀愁をテーマと感じていたわけで、そうしていくつもの「メイン・テーマ」を見ていて、それらを特徴として挙げられるのかななどという風に考えていてたわけで、ところがこれらは「表面的な特徴」のひとつひとつでしかないのだから、そこにメタ的なテーマまで含め始めると「膨大な小説」が展開したことになる-しかもそれは私が感じた特徴だけで、そうなのである(という文章も続いたりする)。

結局、この本の解説にもわたしは納得していない。その最大の理由は「ラ・マーガ」という主人公の愛人とされる女性が「娼婦(娼婦と恋をする云々)」と書かれているのだが、本文には、それらしき記述が見られないことだったりする(そんなことが!)。あるいは原文だと、そういうニュアンスのある言葉や風俗が見られるのかもしれないが、少なくとも私のわかる風俗を前提にして、かつ日本語上というか翻訳文上は、それを確認できるところは見当たらなかった。子ども(赤ちゃん)のためにお金が必要で、という話をする件もあるのだが(20章P82)、これは、むしろ反証的な印象が強い。が、「そういうストーリー」を否定する気にはなれない。「そういうストーリー」もあり得るからだ。

この「あり得るストーリー」の無限さが、つまり最大の特徴なので、そういう意味で、だれもが「他人の読み(ストーリー)」を否定することなんてできない、というのが「石蹴り遊び」の最大の特徴だと言えるだろう。
そして「トリック」、だ。

その上で-つまり、「石蹴り遊び」の要求に沿うように-「読む際の注意」を書くとすれば、「章番号の前に、飛んでくる前の章を記載しながら読む」ことを挙げたい。あるいは、それは付箋でも良いのだが。これには「物理的な読みにくさ」を解消するという、むしろ「石蹴り遊び」を楽しむためのルールと言える。
原本では各ページに章番号が書かれていて、直ぐに飛べるらしい。そして、読み進めるための「指定表」も冒頭に用意されてはいるのだが、読んでいる最中は「どこへ行く」のかはわかっても、「どこから来たのか」は覚えているか、メモしているか、指定表に戻るかしないとわからない。

そこで指定表に戻るのが一番と言いたいところだが、それだと「大きなロス」を生じるのだ。そのロスを生じさせない、もうひとつの「対策」は2つ目の読み方の際に、2つの栞を用いることも挙げられる。実際、第1部・2部は順番通りに進むので、「どこまで読んだか?」の目安をつけやすいこともあって、私は2つの栞を用いていたので「ロス」を生じずに済んだ。章番号&ページ番号のメモでも見落とさなかったと思うけれど。

まあ実際は、そんな仕掛けも指定表を丁寧に「読めば」わかることだ。
こういう集中を強いるところが、「石蹴り遊び」全体を通じてあって、それがまた、メタ小説的ななにかを訴えてくるので気が抜けない。でも私自身は「楽しかった」といえる。「第2部怒涛の(と言ってしまう)ラスト」だけで、それまでのつまらなさは回収しきったので。というより、「そのとき」には、「これが書きたかったのか」と思ったものだ。つまり、第2部の終わりでは終わらない(そして第3部の終わりでも)。そして、つまりそれが「石蹴り遊び」だ。

共犯者

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その 柔らかな 肉の、奥底には

 より柔らかな骨をかくし 熱い糜爛を抱き

悶えて、月と同じくする痛みを抱え

ひそひそと声ひそめて話すお前ら

 共犯者たち

汝ら、おんなたち

 夏にひきわたされる入道雲を仰ぎながら

汝らの共犯を思う、思いだす、その裏切りを、残酷を

世間を篭絡して操る秘めたる技を、無神経な命を

 穢れしか知らない魂を、神話を支配する聖なる力を

あの夜の、共犯者だけが知る暗号のみだれ打ちにおいてすら

 だれも知りえない、その謎を

お前たちすら、とうに忘れてしまった謎と支配、

 その暗号を、その謎を

今夜もどこかしらからも、いずこからも

響いてくる

そのもの柔らかな凶器となりて

笑みもて互いをも切りさく季節となりて

お前たちは腐乱する、海の潮風のなかで

 野蛮な未開に犯されながら最先端の街に横たわり

潮風を呼びながら腐乱する

光る、割れる集う割れる

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オレンジ色に割れる。

黄色と赤か・・・
緑は泣く、太陽の色、色、色、に。

川の傍らを流れる死体の血と涙とを乾き
砂漠のようにぼくらは荒れて
野球少年のようにはなれない野球少年になって
舞い上がる、
ほこりのなかで、ただ踊る

あの鮮やかな黄色とか赤とか、そして緑とか
オレンジ色に割れる前のいきものを
そっと大地におろす神聖な儀式を

大地のまとう色なら脱がしはがして
犯しうるすべてを犯し
野球少年のようになって滑りこみをくりかえす
かれらこそ真冬の蜃気楼、無色の虐殺者ども
真夏を真似た氷点下の季節

さるは夕陽にうかぶ背を追う子どもたち
ああ、そしてオレンジ色に割れるのだ。

島、閉づるときに

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遠くから打ちよせてくる島嶼よ
雲のなかで吹く風のように愛さない
波のようにうねる時間をふり止み
夜のようにうだる、歌を止めて
時計の針のような砂を横流しにどこまでも歩く
(きみたちの興味は霧にあふれた森のなかにあるのか
コツコツと響きわたる足音のように
物語られるすべてを愛しながら
どのように消えるか、止まるかを狙いすまし
そのように遠くから打ちよせてくるかよ
覚えられている祭りのように
子どもたちは空っぽの境内をはねる
ただ一度の輝きのように、すべてを村に(もう一度)
幼い日を思いだし眠る老婆のように(あるいは)
猫が寒村を歩み、老爺が伏す街路では
ひとつの島がいま、
悠久の時にむけて閉じてゆくのだ

あの、近き遠さにもだえるの

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なんだろうか、遠くからよお

なんであろうか、むくむくと起きあがる

胸の

なかの

この曜日を失った木曜日に似た日曜日(いや、月曜日)

なんであったろうか

この近き遠さより訪れようとしながらたどり着けない

その胸の奥からよお(すさまじき息苦しき)

なんであろうか、そこそこ遠くから(見えない遠くから)

なんであろうか、なんであろうか

そして、

なんであろうか

おまえ

なんであろうか(なんであるか?)

作家と年齢(適当)

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ドストエフスキー (1821)
罪と罰      (1866)45
白痴       (1868)47
悪霊       (1871)50
未成年      (1875)54
カラマーゾフの兄弟(1880)59

トルストイ    (1828)
戦争と平和    (1869)41
アンナ・カレーニナ(1877)49
復活       (1899)71

フォークナー   (1897)
響きと怒り    (1929)32
サンクチュアリ  (1931)34
八月の光     (1932)35
アブサロム、アブサロム!(1936)39

ボルヘス(1899)
伝奇集 (1938-1944)39-45

森敦        (1912)
酩酊船       (1934)22
月山        (1973)61
われ逝くもののごとく(1987)75

マルケス (1927)
百年の孤独(1967)40
族長の秋 (1975)48

大江健三郎      (1935)
個人的な体験     (1964)29
万延元年のフットボール(1967)32
燃えあがる緑の木   (1993-1995)58-60
取り替え子      (2000)65

リョサ      (1936)
緑の家      (1966)30
密林の語り部   (1987)41

古井由吉  (1937)
杳子    (1970)33
槿     (1983)46
仮往生伝試文(1989)51
白髪の唄  (1996)59

村上春樹    (1949)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
        (1985)36
ノルウェイの森 (1987)38
ねじまき鳥クロニクル(1994-1995)45-46
海辺のカフカ  (2002)53
1Q84    (2009-2010)60
騎士団長殺し  (2017)67

カズオ・イシグロ (1954)
日の名残り    (1989)35
充たされざる者  (1995)41
わたしを離さないで(2005)51
忘れられた巨人  (2015)61

宇宙空間

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秋晴れて灌木を透いて見える丘を遠くにおき
背景の波音に耳をすましている
どれほどの時間を砂に変え、海は海を創りなすのか
海から立ちあがる山のようには空は固定せず
ただ風の緩慢に身をゆだねている雲のように
あの山も丘向こうに消えてゆく、
あなたが…と言いかけてやめて
いくたりもの迷いで時間を作る
そのように歩く時間を壁の隙間に差しいれて
子どものように、その隙間から見える雑踏をボンヤリ見てる
背景では波音が響いている-轟いているといってよい
見あげれば、あの丘が微笑んでくれるとさえ思える
つめたいほどの暑熱の季節にふれて指先は枯れ
あまりのかなしみに、隙間の雑踏に都会を見る
ここでぼくは、ただのひとりだ

ひとりきりで泣きたい

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「どうせ泣くのなら、ひとりきりで泣きたいから出ていって」

覚えているのは、そう電話でいってきて顔も見ないままにわかれたきみだろう。当時のX駅には通るたびグラグラと揺らしたくなるような陸橋を通りぬけなくてはならなくて、小さなアパートに行くまえには必ずそこで立ちどまり、陸橋下をまばらにすりぬけてゆく車を数台みおくってから歩きはじめた。

なぜか夜の陸橋だけが思いだされるのは車が通るとしたら必ず夜で、それは覚えているのがライトの光だけだからだろう。しかし寒い夜のことよりも暖かな日のことを思いだすべきだと思う。なによりも大好きだった細くやわらかな毛の金色の輝きを。むしろ特徴的なきみの声さえ吸いとってしまうような美しい髪の毛を。

「どうせ泣くのなら、ひとりきりで泣いてほしいから出ていって」

そうも言いかえてみよう。わかれなんてつまらないものだよ、ほんとうに。ただそれだけのわかれでしかない。ふたりで泣けたことなんて忘れてしまうし、ふたりで笑えたことを、そう、「奇跡だ」なんて思えない。ひとりきりだった、やはり、そうして、やはりひとりきりだった。ひとりきりを取りもどし合う、それが愛することじゃないかと。そのためにひとりきりで泣くことが大切だねと。

今年は春がないままに夏になり、昨年は夏がないままに春が終わった。今度の冬なら秋さえ捨ててしまうだろう。思いだすことはない、もう、思いだすなにものも残ってはいない。ただくり返される呪文のように、わかれがわかれに告げている。

「今夜くらいはひとりきりで泣きたいね」